社員旅行 沖縄

(1988年7月)
会社の諸先輩方はやさしかった。
まだ、事務所もこじんまりとした感じだったのもあるかもしれない。

月に1回社員の交友を深めるため土曜日出勤というものがあった
その日は私服の出勤でOKで特に働くわけではなくて
ビル内の会議室を別途借りて座談会みたいな感じで1日を緩く過ごすという
平成や令和のセカセカした感じはなかった。
まだ責任のある職ではなかったからそう感じたのかもしれない。

入社して半月過ぎた時、来月社員旅行で沖縄に行くという
社員のほとんどの人は会社で積み立てをしていたため資金的に問題はなかったが
途中入社で積み立てもない人にはお金の負担がかかるが参加します?とのことだった
会社になじむためにも参加しておこうと思って行きますと若者らしく答えた

飛行機に乗るのはこれが初めて

2泊3日
バスで移動する日程とレンタカーを借りて自由行動する日程になった
沖縄は自然が良かった、ジャッキーステーキハウスが良かった、沖縄そばが良かった

仕事もせんと沖縄満喫でした。
部屋はくじ引きできまるのだが
当時の部長と課長の部屋になった
これは仕組まれていた?かなと良くわからなかった

嘉手納基地みました。
沖縄の中央にどんとぶんどっています。
これか基地問題
フィンガーファイブはパスポートもって本土来ていたくらいだからアメリカなんだなここは

当日の夕飯だったと思うが「ジャッキーステーキハウス」でステーキをたべた
あと、大学時代の友達には沖縄出身が3名いて
電話番号だけ聞いていたので
とりあえず電話してみた
するとすぐに連絡取れて一緒に飲みにいった。
飲みに行くのはいいのだが私はまだこのころ飲酒できない。
沖縄の友達いわく地元の人は昼に泳がないとのこと
夕方から夜にかけて泳いで浜辺で酒盛りというのが定番だという。なるほど。


レンタカーは同じ日に中途入社したYさんといっしょに借りて行動した。

沖縄そばは美味しかった
実は自分は沖縄出身ではないかと思ったくらいだ

58号線を走っていると横に米軍の軍人の乗る車がふらっと近づいてきてアブなと思った記憶は残っている。やつら飲酒運転だろう。
沖縄の人は米軍の人も含めて運転が下手という記憶が植え付けられた

また、すぐに沖縄に行こうと思っていたのに次に行ったのは20年後だった。




最初の仕事は納品作業

(1988年6月頃)
最初に就いた仕事は富士通の大型汎用機の仕事だった。
大型汎用機というとCOBOLというイメージだが、
やった仕事はOS寄りの仕事だったのでアセンブラとかマシン語りの言語であるLDLで開発を行う仕事に従事した。
当時のデスクまわりの環境は、ネズミ色天板の事務机とセットになっているネズミ色のキャスター付きのイスを使っていた。
まだ、コクヨなどが出しているOAうんちゃらといったOA家具的なものは、まだ存在していない頃だった。
そのネズミ色天板の上には、パソコンが...ないです。仕事用に1人1台パソコンが用意されたのはもう少し後になってからです。
代わりに灰皿が置いてあります。
喫煙タイムというのがあって偶数の時間は喫煙者が喫煙可能でした、10時〜11時の間とかね。その時間帯はちょっと空気もネズミ色になってました。なんか昭和って感じですね。
最初にやったのは、納品作業でした。キングジムの箱ファイルにプログラムのテスト結果を束ねていく作業でした。
テスト項目書とテスト結果を印刷してパンチ穴を開けて箱ファイルに綴じていきます。
箱ファイルの背表紙をワープロOASYSで打ち出して差し込んで1冊できあがり。
納品物の多いときは、箱ファイル7冊くらいになったかな。
結構重労働です。
ちなみにテスト項目とテスト結果は手書きです。
デシジョンテーブルのテスト項目書の雛形をOASYSで作って1枚を印刷、それを箱ファイル7箱分くらいの枚数にコピーされたものにテスト項目を手書き、テスト結果を書込み(このとき、私は納品作業だけなのでコピーとファイル綴じ)。
パソコンが1人1台ないってのは結構大変です。ちなみにワープロもフロアーの全員で2台くらいしかないものをシェアして使っていました。
ワープロコピー機を使えることがプログラマーの最初の一歩でしたかね。

www.fujitsu.com

中堅ゼネコンからIT企業へ

(1988年03月~1988年6月)
大学は建築学部だったので、就職は東証2部の中堅ゼネコンに就職内定した。
採用面接も福岡市でやったので、まだ東京に行ったこともないまま東京の会社に就職内定となった。
コンピュータは?どうする。
時代は徐々にCADを使うようになっているので、後々はそちらの方面をやりたいなと思っていた。
1988年4月が入社だが、3月くらいに研修と称して内定者が東京に集められて現場を経験する。
その時代は、研修と言いながら労働者を確保する常とう手段である。
建築の現場は、意外と肉体労働です。
鉄筋工のお兄ちゃんが「監督さん、そんな現場監督するよりこっちの方が儲かるよ」と鉄筋を曲げながら大きな声でしゃべっていた。
時代はバブル到来、いや本当に儲かっていたと思うよ、かなり体力使うけどね。
しばらくは、毎日、プレハブの飯場(はんば)で身支度して現場へ。
壁や屋根を作っている途中のマンションは、結構危険です。
安全なものは今から作るので、そりゃ危険です。
そんな危険な現場も3日くらいすると麻痺してきて高所にいても「なんか大丈夫」な感じがするってこれが一番まずい。
そんな、社員寮と現場を行き来する2週間の研修を終えて4月1日に入社式からの
建設業協会の集まりみたいな講演会に元巨人の堀内恒夫さんが何か話していたのをおぼえている。
数日して配属が神奈川の湘南に決まった。と前後して退職の意向を会社に伝えた(早いなぁ)。
コンピュータをやろうというかやりたい。そこは揺るがなかった。
でもとりあえず現場の仕事はしないといけないので千葉の浦安の社員寮から湘南に通った。
片道2時間くらい掛かったと思う(記憶がほぼない)。
東西線からの東急からの江ノ電みたいなコースだったと思う(10日以上は通ったのよね~)。
ゴールデンウィークが過ぎたら身支度して引越し業者手配して転出届してって記憶ないけど多分自分でやっている。
インターネットも携帯もないから全部、社員寮の公衆電話からやったはず。
(数年経ってテレビ番組で「今の若い者は直ぐに会社を辞める」とかなんとか、ハイ私はその先駆者の一人でした)
5月11日に福岡に戻ってから当時ぼちぼち出版が始まった転職雑誌のリクルート社のBeingみていた。
求人を出している会社が五十音順に掲載されていてザーッと眺めて
ソフトウェア開発で給与のいい会社を五十音順に応募してみることにした。
5月12日に1件目の希望会社のビルを見物にそれから5月17日に履歴書を郵送。
5月20日に連絡あり、5月25日AM10:00~入社試験(適性検査、一般教養、性格検査、面接)をこなした。
午前中は、4人いたのに、午後は2人に...
翌5月26日に早速連絡あり、5月27日AM10:30~役員面接とのこと(早いなぁ~)。
翌週の6月1日に採用意向とのこと6月8日に採用通知が送ってこられて6月16日に初出勤。
転職活動1社目にして転職活動終わり。
ここからプロのプログラマー生活が始まることに。
事務所は、壁も天井もあるし空調もきいてて快適。
短かったけど野外での現場監督の経験があるのでエアコンのきいたオフィスビルで作業できていることにはいつも感謝しています。

大学の研究室

(1986~1987年頃)建築学部だったので建築にコンピュータを利用するといった研究室に所属した。
研究室には、ミニコン(日立造船からのリース)があり、ペンタブレット(デジタイザ)で図面が(少し)描けるコンピュータがあった。
それを活用して手書きではなくコンピュータを利用した設計図面描きを行った。
研究室には、憧れのPC9801がありプログラミングの沼に入っていった。
(ちなみに言語は、BASICだけどね)
実践的なところでは、書籍で高層階の建物が建物の周囲に影を作るが、それが法律上、他の敷地を長時間の影の状態にしてはいけないなどがある。
建物の3Dデータを作成して、太陽の軌道のデータを用意して、建物の陰影を時間単位に計算してグラフィックに表示する。
印刷は...
電算室にあるペンプロッタで出力(せいぜいこのくらいよ...できることは)
(ペンプロッタは自由に使えたので、Fortran幾何学模様やら計算式で描画できるものを良く出力した。描かれる様子を数学講師と一緒に眺めていた(線や曲線を1本づつ描くからね))
友人の坂根が、総務部で学生のデータをパソコンに入力しているというので総務部に遊びにいくと、IBMのパソコンにパチパチ入力していた。
「これは、どうやってデータを保存しているの?」と尋ねると「dBaseⅡ」というアシュトンテイトのアプリを使っているとのこと、ここで人生で初めてデータベースを身近に感じた。
そんなことをやっていると時代の流れからか、電算の学部が新設されるとのこと。
新棟が建設されて本格的に電算施設が用意された。
20代くらいの男性と女性の講師もやってきて何か自分のコンピュータ界隈がにぎやかになってきた。
さらに、新たに市内にファジー理論で有名な山川烈さんが所属する学部が新設されるというので、研修室の皆で会いに行きました。
テレビ放送では、NHK坂村健さんのTRONを解説する番組が毎週(だったかな)放送されていた。
1980年代後半は、自分と世間のコンピュータ界隈がにぎやかになってきていることを実感できる時代だった。

一般財団法人ファジィシステム研究所

www2.nhk.or.jp

総天然色(ショック)到来

(1985年10月より後)PC8001mk2SRでプログラミングを行ってカセットテープに保存したり読み出したりするのが、だんだんツラくなってきたのでフロッピーディスクが欲しくなってきた。
プログラムのコード量も段々増えてきたので管理も面倒くさくなってきたので...
富士通から4096色同時発色できるFM77AVが発売されたので、それに飛びついた。
その当時、私の中では、富士通というとFM-7タモリを使った広告が多くあり、ビジネス向けという感じていた。若者向けとは感じていなかったので少し抵抗があった。
NECやシャープや日立といった家電を主体とした会社じゃなくFACOMといった汎用機がすぐにイメージされるので、そこも近寄りがたいものがあった(後に仕事をしだしてから富士通さんとは深いつながりになるのだが、この時はそんな未来は想像できなったネ)。
なぜ、FM77AVに飛びついたのか?
4096色同時発色とFM音源は、さわってみたい世界だった。
孫正義さんのソフトバンから出版されていた雑誌 Oh FM にプログラムが多く掲載されていたのも魅力的だった。
特に1986年4月号のレイトレーシングのプログラムは、建物のデータ(オブジェクトをいくつか結合させた程度の造形)を作ってモニタに表示させて写真(カラーフィルムだぁ1986年だからね)に撮って後日現像して大学の研究室の壁に貼ってニヤニヤしていた(まぁまぁ出来が良かったので)。
すると隣の研究室の学部長が、「これどうやって作ったの?」聞いてきたので「パソコンで描いたんですよ」というと「へぇ、すごいね」とかやり取りしたのを覚えている。
レイトレーシングのプログラムは、マシン語(言語ちゅーか16進数の塊やね)が数ページ掲載されていてそれを間違えないように打ち込んでいったのを覚えている。
プログラムを実行するとモニタの上部から1ラインづつ描画される。1ラインづつが体感(描かれる様子)できるは、FM77が必死こいて計算してもそのぐらいのスピードしかでないからである。
画面全体すべてが表示されるのは、翌日である(24時間は超える)。
1986年だからカラープリンターはない(ドットインパクトプリンタしかないよ)ので、前述のアナログカメラに撮るしかないのだ。
そして、写真を撮ったらパソコンの電源OFF。再度、表示させたい場合は1日以上お待ちください(1画面分のRGBデータを保存する手段もなかったので...)。
あと、FM音源でなんちゃってシンセみたいなことができたので、ティアーズフォーフィアーズの「Everybody Wants to Rule the World」を打ち込んで音楽の世界にも少し触れた。
パソコンを活用する機会が増していった大学生後半期であった。

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PC8001mk2SR購入

(1985年春)MSXパソコンでプログラミングの基礎を学んだので、少し上級のパソコンを購入しようと思いPC8001mk2SRを購入した。
デンキのカホで、本体+モニタ+データレコーダーを購入した(合計で129,800円)。
BASICでプログラムを書いてデータレコーダーでカセットテープに保存。
保存したプログラムを読込んで改造を繰り返す。
MSXパソコンに比べるとメモリ容量が増えたので少々大きなプログラムを組めるようになった。
これで、プログラミングの達人へ...になると思ったが、野球ゲームのカセットを購入してしまい。少々、遊んでしまった。ゲームのロードに30分くらい?かかったかな?
本体の電源を落とすと消えちゃうからね... 無駄な時間が...
まぁ、とりあえずBASICと触れ合う機会が増えました。

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MSXパソコン購入

(1984年冬)パソコンを買うにしてもPC9801は、学生の自分にとって手が届かない高価なパソコンで、そこの世界には行けない。

そこで、SONYMSXパソコンのHitBitを購入した。

「ひとびとのひっとびっと」のチャッキで松田聖子がコマーシャルしていた。

パソコンのCMは、このころからアイドルが多く起用されはじめた。

MSXパソコンは、テレビに接続できるので本体だけを購入して安価にはじめられるのもよかった。うちの14型のテレビ(1984年だからブラウン管だよw)につなげてCASIOのハンドヘルドの小さな白黒液晶画面からカラー大画面に(幸せw)。

MSXパソコンでBASICを習得していった。

雑誌のBASICマガジンに掲載されているMSX用のプログラムを打ち込んで遊んだ。

遊んだというのは、BASICマガジンは、だいたいゲームプログラムがよく載っていたからだ。ゲームプログラムを打ち込んでプログラミングを学習するというは、良い方法だと思う。更にちょっと改造して自分のオリジナルを作るっていうのも言語を覚えるには良かった。

グラフィックをやらねば。

ということで、学研から販売されていた書籍を購入「PC・MZ・MB・FM・SMC・PASOPIAMSXで できる マイコングラフィックス応用自在」2400円(消費税の存在なし)。

掲載されているプログラムを片っ端から打ち込んで実行&習得、この本で透視図とか3Dとかの基礎を学んだ。
三角関数や行列など数学の知識が必要なので、やっぱ、コンピュータは数学だなぁ~と思った次第。